勝山物語・Vol.02平泉寺物語

平泉寺物語 第一部~泰澄大師伝説~

平泉寺の開祖、泰澄大師(たいちょうたいし、682あるいは691-767)の一生は、伝説につつまれています。
越前の国(福井県)麻生津(三十八社町)で三神安角の次男として生まれました。
父の三神安角は高句麗からの亡命帰化人の子であったといいます。
母は伊野原(勝山市猪野)出身でした。

幼少の頃の泰澄は同じ年齢の子どもたちと遊ぶよりも、泥をこねて仏像のようなものを作って遊んでいたらしいと伝えられています。

時がたち、泰澄が14歳の頃。
夜中に目を覚まし越知山の洞窟へと行くようになりました。その行為を誰も気に留めなくなった頃、ついに越知山の峰に篭り厳しい修行を重ねるようになったといいます。

そして、奈良時代より少し前の大宝二年(702)に越知山で修行を重ねる泰澄(21歳)のもとに、文武天皇より勅旨として大伴安麻呂が遣わされ鎮護国家法師に任命されます。

その後、泰澄は越知山から豊原(福井県丸岡)へ移り豊原寺を創立します。この頃から、能登島の小沙弥が泰澄に付き従うようになりました。小沙弥は泰澄の日常を支えたことで有名です。

小沙弥は「臥行者」と呼ばれています。このように呼ばれた由縁として二つの説があります。一つ目が、寒風氷雪の日は泰澄の前に身をかがめ雪の上にひれ伏して、泰澄を庇ったからという説。二つ目が、寝てばかりいるからこの名前がついたという説。どちらかは、今となっては、不明ですが小沙弥は泰澄の日常を支えたことは有名です。

和銅五年(泰澄31歳)の頃。
この頃になると泰澄と小沙弥は、豊原と越知山を行き来していました。その途中に泰澄たちは、官米を都に運ぶ船頭・浄定とであいます。浄定はある出来事をきっかけに、泰澄の弟子になる事を誓い、官米を納め終わると越知山に出向き泰澄の弟子となりました。

霊亀二年(泰澄35歳)の頃。
かねてから、気高い白く輝く山(白山)の山頂を望んでいると、にわかに紫雲がたなびき、光の中から泰澄を呼ぶ声を聞いたといわれています。

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養老元年(泰澄36歳)の頃
ついに二人の弟子と共に越知山をおり白山を目指しました。池田から花山を通り大野に入って、九頭竜川で筥の渡し(はこのわたし)を渡り母の生まれ故郷である伊野原にたどり着きます。

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ここから一行は、白山を目指し登り始めます。道なき道を進むと、一行の目の前に、清々しい泉が現れました。これが、現在の御手洗の池です。

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そこで、一行が泉を拝んでいると、イザナミノミコト白山妙理大権現が泉から泰澄の前に現れました。この泉は、イザナミノミコト白山妙理大権現が休息の地として利用し ている中宮だったのです。イザナミノミコト白山妙理大権現は、泰澄に日本を救う覚悟を確認し、その覚悟があるのであれば、住居としている白山の頂上まで来るように伝えたそうです。 御手洗の池から現在の平泉寺裏山へ行き、三頭山へ。

そこから、法恩寺山小原峠から一ノ瀬を通り、ついに白山の頂上を目指す場所まで着きました。 この時、泰澄によって開かれた道は、後々「白山禅定道」と呼ばれるようになります。

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白山山頂を踏破した泰澄は、白山妙理大権現が現れた泉に庵を構え、ここを拠点に白山周辺に出向いたと言われています。その庵で泰澄は、一体の白山妙理大権現の木造を彫りました。この木造を祀るために、庵を社殿に建て直したとされています。ここから、平泉寺の歴史が幕を開けることになるのです。

御手洗の池ほとりには、泰澄が植えたとされるご神木が、今もあります。

養老六年(泰澄41歳)
泰澄は、元正天皇の病気平癒祈祷を命ぜられます。元正天皇は、泰澄の加持祈祷により全快し、「神融禅師」の号を賜ります。この頃から、中央(この時代は奈良の平城京)に白山信仰が広まると共に、「越の大徳」と呼ばれた泰澄大師の名声が高まったと言われています。その後、元正天皇崩御の折には、御自らの髪と歯が送られたため、平泉寺墓地には「御歯髪塚」が残っています。

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天平八年(泰澄55歳)
唐から帰国した玄肪から「十一面神呪心経」を伝授されます。「十一面神呪心経」は玄奘三蔵が訳し、それを玄肪が日本に持ち帰ったとされています。

天平九年(泰澄56歳)
全国で天然痘が大流行しました。老若男女を問わず多くの病死者がでました。そのような折、泰澄のもとに、都より勅旨が遣わされます。聖武天皇の命により疫病を食い止めるように命ぜられました。泰澄の神通力により、国中に広がった疫病を食い止めたといいます。

聖武天皇は、泰澄の功績を讃え「大和尚」の位を授けたと伝えられています。また、同時に「泰證」と名前を賜わりますが、父を慕い「泰澄」と改めたいと申し出て許されています。現在の「泰澄」の名はこの出来事が由来となります。

天平宝字二年(泰澄77歳)
泰澄は隠居を決意し、越知山に帰りました。 晩年、泰澄は越知山大谷の仙窟に篭ったといいます。

神護景雲元年(泰澄86歳)
木塔一万基を勧進造立した後の三月十八日に入定遷化と、 泰澄の死後二百年経って成立した「泰澄和尚傳記」には記されています。

ここまでが、平泉寺の礎を築いた泰澄大使の伝説です。 この次は、奈良時代から平安時代へと移りかわり、平泉寺がどのように勢力を蓄えたかを紹介します。