勝山物語・Vol.05畑時能物語

畑ヶ塚

勝山市北郷町伊知地に「畑ヶ塚」がある。新田義貞配下の武将として勇名を馳せ、史書『太平記』が一章を割いてその武勇を讃えた畑時能(はたときよし)を祀っている。畑時能の物語を語るに当たって、まずはその時代を眺めてみよう。




南北朝時代の越前

時は南北朝時代にさかのぼる。足利尊氏、新田義貞、楠木正成らの奮闘により鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇による建武の新政が始まる。

しかし、世は未だ定まらず、幕府最後の執権だった北条高時の息子北条時行が鎌倉へ進攻した。世に言う「中先代の乱」である。足利尊氏の手により乱は平定され、人々はようやく平安の世が訪れたと思ったのもつかの間、足利尊氏は鎮圧後もそのまま鎌倉に居座り後醍醐天皇に反旗を翻す。逆賊となった尊氏を討つべく新田義貞は東征の軍を進めるも、箱根・竹の下の戦いに敗走。尊氏はこの勢いを駆って京都を制圧し、後醍醐天皇は比叡山へと逃げた。風前の灯火かと思われた後醍醐天皇であったが、奥州より北畠顕家が長駆参戦。楠・新田とともに足利尊氏を九州へと追いやった。

建武三年(1336)。九州より捲土重来を果たさんと勇躍する足利尊氏・直義兄弟。そして、それを迎え撃つ後醍醐天皇・楠木正成・新田義貞。この両軍により時代の趨勢を決める戦いが行われた。世上に名高い「湊川の戦い」である。

敗れた後醍醐天皇は比叡山へと逃げ込み、事もあろうに足利尊氏と単独で和議を進めようとした。新田義貞を切り捨てて比叡山を降りようとしたのだ。このままでは朝敵になりかねない微妙な立場に追いやられた義貞を救ったのは新田家臣堀口貞満であった。「新田家の永年にわたる忠義を捨てられて京都に臨幸されると仰るのであれば、義貞を始めとして一族50余人の首をことごとく刎ねて行かれるがよろしいでしょう」との奏上の文言、そして堀口の凄味に後醍醐天皇はたじろぐ。

南北朝時代の越前

態度を豹変した後醍醐天皇は、恒良親王と尊良親王とともに新田義貞に北陸道を侵攻を命ずる。猛吹雪による凍死者が続出する中、足利方の執拗な攻撃に悩まされながらも越前国金ヶ崎城(敦賀市)に入る。しかし、そこは新田義貞にとって安住の地ではなかった。義貞が入城してまもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により城は包囲される。義貞は、弟の脇屋義助とともに城を脱出。杣山城(旧南越前町)へ入り、城主である瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲網を破ろうと試みるが失敗する。結果として、建武四年三月、金ヶ崎城は落城した。尊良親王は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送された。

官軍であるにもかかわらず両親王を失った新田義貞であったが、夏にはその勢いを盛り返した。鯖江の合戦で越前守護、斯波高経に勝利し、越前府中(武生)を奪い、悲願の金ヶ崎城も奪還する。しかし、越前国において不穏な動きを見せる勢力があった。勝山の平泉寺である。平泉寺は多くの僧兵を有し、圧倒的な財力を背景に越前に隠然たる勢力を有していた。南朝についていたはずの、その平泉寺が足利方に寝返ったのである。

建武五年七月。平泉寺衆徒が立て籠もる藤島城を新田勢が攻め立てた。その味方部隊を督戦するために義貞も藤島城へと向かう。灯明寺綴(福井市新田塚)まで来たときのことであった。黒丸城から藤島城へ加勢に向かう敵軍と義貞は偶然に遭遇。予期せぬ戦いの幕は切って落とされた。激しい戦闘の末に義貞は戦場の露と消える。太平記によれば、敵の矢を受けた愛馬が塀を飛び越せずに転倒し、左足が馬の下敷きになったところに眉間に流れ矢を受けたとある。事ここに及んではと義貞自ら首を掻き切るという壮絶な最期であった。首級は都へ送られ、清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこのときに足利の手に渡ったという。

義貞亡きあと、弟の脇屋義助の力により越前における勢力を回復した新田勢であったが、足利方の猛攻が始まった。杣山城(旧南越前町)は落とされ、越前はおろか加賀、能登、越中、若狭の五カ国のうちに南朝側に加担する城はひとつもないという有様であった。

しかし、雲霞のごとき足利勢のなかに持ちこたえていたのが鷹巣城である。現在の福井市高須町の高須山頂に籠もり、わずか27人の手勢を率いて足利方に刃向かう者こそ、畑時能、太平記でいう畑六郎左衛門であった。

畑時能 奮戦す

畑時能は武蔵の国の住人である。齢16の時から相撲を好んで取ったが、坂東八カ国で彼に勝てるものはなかったという。その姿は筋骨隆々で、かつての相撲の名人として名高い薩摩の氏長の再来と言われたほどだった。また勇を頼むだけの人物ではなく、知謀にも優れ人心を掌握すること実に巧みであったという。

錦絵

彼の甥に所大夫房快舜ところのだいぶぼうかいしゅんという名の、時能に勝るとも劣らぬ剛勇の僧がいた。この快舜に加えて、悪八郎という名のこれまた力自慢の家来がいた。この2人が畑時能の両腕として活躍する。

       

ちなみに、畑時能は合戦で犬を用いた最初の武将と言われ、「犬獅子」と名付けられた愛犬の姿は古来より様々な絵に描かれてきた。この錦絵は、幕末の奇才、歌川国芳作の「武勇見立十二支」のひとつである。十二支のそれぞれに馴染みの深い人物を描いた浮世絵であるが、この中の「戌」いぬが畑時能である。

十二支浮世絵

       

ちなみに、「午」うまは曽我五郎が兄の十郎の救出に勇躍出発する様を描いている。
「未」ひつじは関羽である。なぜ関羽と羊が結びつくのかは、諸説ある。
「申」さるは孫悟空。悟空と猪八戒の決闘の様が描かれている。
「酉」とりは怪童丸、すなわち金太郎である。左の鶏は烏天狗。
「亥」いのししは雄略天皇。猪を踏み殺したとの逸話が残されている。

そして、戌が畑時能である。他の十二支の面々を眺めていると、いかに畑時能の物語が人口に膾炙していたかがわかろうというものだ。

さて、畑時能が墨守する鷹巣城に合流した武将がいた。新田一門の一井兵部輔氏政である。神算知謀と称された武将で、杣山城(旧南越前町)を出て平泉寺へ出向き平泉寺衆徒を説得して南朝側に味方させんと交渉を続けていたのだが、新田義貞亡き後の南朝方の崩れ様を見ていた平泉寺は、南朝に加担するそぶりすら見せない。平泉寺挙兵を断念した氏政は、やむなく鷹巣城へと入ったのだった。。

これを快く思わなかったのは、足利高経と高師重である。 「時能の武力。そして氏政の知謀。寡兵とはいえ、これを放置しておいては必ずや天下の大事に発展する」 と、軍勢7000余騎が鷹巣城を攻め立てた。それも四方を何重にも囲い、30カ所以上の砦を作るという念の入れようである。

鷹巣城は、現在の福井市高須町にある高須山頂にあった。高須山は標高438m。登れば福井平野が展望できる。山頂に籠もった畑時能からは攻め方の水も漏らさぬ包囲網を手に取るように見えたことだろう。おそらく、家臣である快舜、悪八郎らと如何に攻めるかを談じていたかもしれない。というのも、この3人は闇夜なると帽子兜に鎖帷子といった軽装で足取りも軽やかに出かけるときもあれば、大鎧に七つ道具を供えて物々しく出て行くといった具合に、武装を変じながら様々な方法で敵の城に忍び込んだからだ。

その忍び込み方も一風変わっていた。まずは犬獅子が城の警備の様を探る。敵の警備が厳しくて、隙を見いだせないときは一声吠えて帰ってくる。敵が寝入って夜警も止んでいるようならば、尾を振って合図をするのだった。警備が手薄とわかれば、畑六郎左衛門、快舜、悪八郎の三人は塀を乗り越えて城の中に討ち入った。気勢を上げながら縦横無尽に思うままに切って回ると、数千の敵軍は驚き騒ぎ一斉に城から逃げ出すのだった。

太平記絵巻


      
      
      
        
        
        
        
               

上は、太平記絵巻に描かれた畑時能の姿である。太平記絵巻は江戸初期に作られたと推定されている全12巻の合戦絵巻であり、現存するのは内10巻。その第7巻目を彩るのが畑時能の活躍である。絵の右側は城攻めの様子であり、犬獅子に先導されて忍び込む3人の姿が見て取れる。中央が畑で、その脇を快舜、悪八郎が固めている。
ちなみに、絵の左側は鷲ヶ岳での奮戦ぶりを描いている。

   
   
  

逆茂木

逆茂木を設置し塀を塗り防御を固めたはずの37箇所の砦も、毎夜ひとつ、ふたつと落とされていった。時能一党に攻められては物具を捨てて馬を失い散り散りに敗走することの繰り返しである。足利方の中には、味方に笑われるのを嫌がってひそかに時能陣営に兵糧や酒・肴を送り「願わくば、私の砦を攻めないで欲しい」と頼む者まで出てくる始末であった。

さて、足利方に上木九郎家光という武将がいた。元々は新田義貞に仕えていたのだが、今は足利方に参戦している。この上木に誰言うともなくひとつの疑惑が生じた。今でこそ畑時能を攻めるふりをしているが、実は敵と内通しているのだという噂である。そして、ある日のこと。大将足利高経の陣の前に高札が立った。高札には、次のような句がしたためてあった。          
「畑を討たんと思わば、まづ上木を切れ」         
(「畑を打ち(耕し)たいと思うのであれば、まず畑の上に生えている木を切らねばならない」と「畑時能を討ちたいのであれば、内通している上木を切れ」とかけている)

大将である足利高経も上木に警戒心を持つようになり、同僚たちもどこかよそよそしくなっていった。こういった雰囲気は知らず知らず本人も気づくもので、上木自身は無念に思っていた。その無念が昂じたのだろうか。2月27日の早朝。上木は一族200名ばかりを防具に身を固めさせ、大竹を切り裂いて盾の面につけ、その盾をかざして攻め入った。これを見ていた他の武将は「畑時能と通じている上木は、城内部の情報に精通しているはずである。急に攻め入ったからには、きっと敵を攻略する手だてがあるのだろう。さては上木のやつ。汚名を晴らさんと抜け駆けする気か。手柄を奴の独り占めにさせてはならぬ」と、一斉に攻めかかった。7000余騎は。取るものも取らずに岩を伝い、木の根に取り付いて鷹巣城へ向かう坂18町を一息に攻めあがり、遂に城の下にまで辿り着いた。

ところが、ここまで攻めあがったにもかかわらず、城は鳴りをひそめて静まりかえっている。畑時能に散々痛めつけられた経験が頭をよぎったか、寄せ手の武将たちは「これはおかしなことよ」と息を潜めて相手の出方を見守るばかり。ところが、そうは言ってはいられないのが上木である。何せぬれぎぬをはらすの唯一の機会を逃すわけにはいかない。

       

上木勢が更に攻め上っていったそのとき、おめき声をあげながら5人の男が突如として現れた。畑時能、快舜、悪八郎他2名の者どもである。むやみに近づきすぎた先駆けの寄せ手は100人余り。これには驚いて、一カ所に集まったところで、悪八郎が8・9尺もあろうかという大木を脇にはさみ5,60人でも動かせないような大石を転がした。その石に寄せ手が潰される様を見て、これは勝機とばかりに畑時能らは左右に激しくぶつかり八方の敵を追い払い、討っては陣へ戻り機を見ては出陣しと縦横無尽に駆け巡った。この戦いの後に、寄せ手も攻め上がろうとするものがいない。川の向こうまで陣を引き払って、遠巻きに構えるばかりであった。

数ヶ月のにらみ合いが続いた。こうなってしまうと困るのは畑時能の側である。小勢であるが故に敵の攻めに乗じて戦功を重ねてきたきたが、逆に言えばじっくりと遠巻かれたのでは打つ手がない。無為の時間ばかりが過ぎていく中で、畑時能はつくづく思案した挙げ句に覚悟を決めた。
 「このままでは我が願いは叶うことはあるまい。目を見張らせるような戦いを今一度やって、敵を散らすかこちらが討ち死にするかである。いずれになるかは天が決めること。己の天運を見定めてやろう」

       

現在の高須山に登れば、なぜ畑時能がこの地に城を構えたのかが理解できる。山頂から西を眺めれば、目の前は日本海三里浜であり、事やぶれたときに舟による逃走が容易である。また、福井平野を一望できるため敵の動きも一目でわかる。山頂からの遠望を楽しんでいると、視界に鷲ヶ岳が入ってくる。畑時能が最期の花を咲かせた場所である。

高須山

       

その高須山山頂には、畑時能の石碑とともに案内板がある。その案内板には「鷲ヶ岳27.4km」と書かれてある。 650余年前に、畑時能はこの山頂で何を想ったのだろうか。

        
        
        
        
               

畑時能 吼える

新田家家紋

覚悟を決めた畑時能は、鷹巣城には27名の手勢のうち11名を一井兵部少輔に任せ、自身は主立った者16名を引き連れて10月21日の夜半に現在の勝山市北郷町にある鷲ヶ岳に登った。新田氏の家紋である中黒の旗を高々と掲げた。これに総大将足利高経は驚愕する。まさか畑時能が後背へと回り込んだとは予想もしていない彼は、豊原・平泉寺の衆徒が後醍醐天皇側に寝返ったと考えたのだろう。このままでは前面の畑時能と後背の豊原・平泉寺衆徒に挟み撃ちされると恐懼した高経は、7000余騎の手勢のうち3000を割いて鷲ヶ岳へと向かわせた。どれほど高経が怯えたかは、翌22日には3000の手勢が鷲ヶ岳に出現していることからも想像できる。

 

豊原・平泉寺衆徒が造反したと予想していたであろう足利方は、鷲ヶ岳に籠もっている兵の数を図りかねていたにちがいない。誰しも16騎で戦いを挑んでくるとは思わない。ところが、しばらく相対するうちに敵がことのほか小勢であることがわかってきた。それならば一踏みにしてやれとばかりに、一斉に攻めかかる。数を頼みに勇躍する足利勢。その瞬間である。彼らの心胆を凍らせる咆吼が鷲ヶ岳からあがった。

   

昼の鷲ヶ岳

「我こそは、畑六郎左衛門。尾張守(足利高経)はいづこ」

まさか畑時能がここにいるとは。3000の手勢の中に入った畑時能、快舜、悪八郎などの豪の者たちは暴れるにまかせ、八方の敵を追い払った。

時能の愛馬について太平記に記述がある。
「畑が乗ったる馬は、項羽が騅にも劣らざる程の俊足なりしかば、鐙の鼻に当て落され、蹄の下にころぶをば、首を取っては馳せ通り、取って返してはさっと破る」
(畑時能の乗っていた馬は、項羽が乗った騅(注)にも劣らないほどの俊足であったので、あぶみの先に蹴り落とされたり、ひずめの下に転んだ敵兵の首を取っては突き進んだかと思えば、取って返して敵陣を破った)

畑時能の勇姿が目に浮かぶ。鷲ヶ岳から駆け下りた畑時能の姿に、さぞや敵兵も度肝を抜かれたことだろう。

    

余談だが、岩屋川を遡っていくと、一抱えほどの岩に馬のヒヅメのようなくぼみのできた岩を見ることができる。かつて畑時能が鷲ヶ岳山頂から馬でひとっ飛びに駆け下り岩に着地した際にできたものとの伝承がある。

このままでは、全軍が壊滅することは必至と思われたそのときである。総大将、足利高経の一喝が飛んだ。
「なんと情けない者どもだ。確かに畑は鬼神の如き強さを誇る。だが、敵は見ての通りの小勢ではないか。まずは己らの馬を止めよ。そして、魚鱗の陣を組め。そして虎韜の陣へと展開し、虎を包むように包囲せよ。ひとりたりとも討ち漏らすな」
高経もさすがに一軍の将である。大将の激励に力づけられた足利勢は、16騎の敵を真ん中に追いつめて包囲し、ひとりも逃すまじと激しく攻めたてた。

しかし、ここが最期と決めた畑時能の奮闘ぶりは尋常ならざるものだった。激闘の結果、16騎の畑一党は足利勢に打ち勝ったのである。太平記には「尾張守の兵 三千余騎、東西南北に散乱して、川より向こうへ引き退く」とある。おそらくこの川とは岩屋川を指すのだろうが、あるいは、九頭竜川なのかもしれない。仮に九頭竜川だとしたならば、これはまさに壊滅的敗走である。

       

夕暮れの鷲ヶ岳

さて、帷幕に戻った畑時能は兵を集めた。16騎で3000の手勢に打ち勝った豪の者たちとはいえ、激戦の最中に5騎は戦死し、9人が重傷を負っていた。時能の右腕として共に転戦してきた快舜も7箇所の傷を負い、その日の暮れには戦場の露と消えた。時能自身も、脛当てや小手などの武具からはずれてむき出しになっている部分には数え切れないほどの切り傷を負っていた。しかし、それらは小傷に過ぎない。問題は、肩部分の武具の隙間に射られた一本の白羽の矢。何とかして抜いたものの、鏃(やじり)を抜くことがどうしてもできない。3日の間、痛みに苦しみ抜いて、畑時能は絶命した。

時能の愛犬、犬獅子は主の死を悲しみ九頭竜川にその身を投げた。その場所は、現在の獅子丸岩である。

畑時能の武徳を偲び、伊知地の村民たちは塚をつくり畑時能を祀った。これが畑ヶ塚である。新緑の頃ともなれば、加賀大聖寺に住む畑の末裔を招いて慰霊祭を行っている。

この塚には「雨の降る夜ともなれば、畑ヶ塚からは斬撃の音が聞こえる」との言い伝えが残されている。また、初夏になれば塚の周りでは、無数の蛍が月夜の下飛び交う姿を見ることができる。それはあたかも畑時能一党の霊を鎮撫するようだ。

(注)「項羽の騅」 漢の劉邦と覇を争った項羽が乗った愛馬が騅(すい)であった。