Vol.01勝山城主列伝

第一話.加賀、越前の一揆討伐

(一) 一揆軍七山家の防戦

家紋

天正二年、織田信長は、家臣である柴田勝家(修理亮)を加賀越前の一揆残党を征伐すべく北の庄に封じ、合わせて宿敵 越後の将、上杉氏を制禁するためでもあった。翌年、柴田勝家は、谷城に立て籠もる一向一揆を征伐させんと、勝家の一族と言われる柴田監物義宣を北袋(勝山)に配した。同五年、監物は、村岡山(御立山)を本陣として砦を築き、一揆軍の七山家(現在の北谷町…杉山、中野俣、六呂師、河合、木根橋、谷、小原)を攻めるも、七山家は防戦し容易には屈しなかった。ご存知のとおり、この地籍は谷峠を越えれば加賀の国である。一向一揆軍は、北は越中より南は越前に及ぶ一大勢力であり、僧侶や士豪浪士を含む民衆軍であった。「百姓の持ちたる国」としてその勢力も強かったのである。

(二) 柴田 監物、谷にて戦死

柴田監物

一揆討伐より二年後の天正五年十一月、監物は、不幸にも戦いの半ばで、谷村河合にて一揆軍の百姓に討たれ、戦死したのである。監物の殺された場所を、人々は「殿切り原」と呼んで今も河合の国道脇の奥に高さ五十九センチメートルの五輪塔が建っている。おそらく監物が討たれた何年か後に、村人が供養のために建てたものであろう。このようにして、わずか二年の勝山での生涯であるため、監物の生い立ちについての記録はほとんどなく、年齢も生国も全て不明のままであり、証明するものは何も残っていない。

(三) 柴田 勝安(勝政)、袋田村に入る

監物の死後、天正六年、北の庄城主 柴田勝家は、自分の養子とした佐久間一族の勝政(佐久間盛次の三男)を再び監物の養子として北袋に送り、監物の弔い合戦として七山家の一揆軍討伐に充てた。勝安は、村岡山を居城として七山家の谷城を激しく攻め、同六年の春、遂に谷城の一揆軍を滅ぼしたのである。谷城の跡は、現在、伊良神社となっている。勝家は、勝安をそのまま北袋に据え置き、北袋の領地を与え、勝安は三万五千石の領主となった。同七年、勝安は牛首十六ケ所を平定し、北袋とともに勝安の領地として与えられたことは周知のところである。

谷城跡・村岡山

(四) 袋田村に勝山城築城

この間、勝安は、兄の佐久間 盛政とともに加賀・能登一揆討伐のために幾度となく戦場へ出陣している。天正八年、勝安は村岡山城より北袋に入り、袋田村七里壁の上に城を築き、その地名から袋田城と呼んでいたが、一揆軍が村岡山を勝利の山として「勝ち山」と呼んだ縁起を担ぎ、袋田城を「勝山城」と改めた。これが、「勝山」という地名の発祥の由来である。一説には、最初、監物の館があったと言われる現在の義宣寺の場所に城を築き、富田城と呼んでいたとも伝えられている。今も小さな石垣跡(公園近く)が見られ面影を残している。「富田」とは字名であって、この辺りは田の富裕な土地であったところから富田と呼ばれ、大蓮寺川に架かる義宣寺橋も以前は富田橋と呼ばれていた。昭和時代、七里壁の上の境内登り口には、杉の木が生い茂る森のようであったが、近年伐採された。

(五) 義宣寺の建立

墓碑と位牌

勝安は、養父 監物義宣の菩提を弔うために、富田城跡に寺を建てて、義宣の名から義宣寺と名付けた。寺は曹洞宗で、山号を白麓山といい、開山は永平寺十九世 祚玖和尚で、寺領二十石を与えられた勝山で最初の寺院である。柴田一族が滅んで廃寺となる運命のこの寺が、再興され、豊臣・徳川時代にも栄えてきたことは、やはり柴田一族の威光が強かった証明で あろう。現在の寺は、慶応年間の大火の後、明治十六年に再建されたものと言われている。今も寺には、北の庄城の鬼瓦と同じ笏谷石の鬼瓦が二基、保管されている。また、寺ゆかりの部屋や、庭園と古笈庵、土蔵、古い鐘楼門などが残されている。また、昔から「勝山十景」のひとつである「義宣の晩鐘」と呼ばれる鐘は、現在も朝夕、町中に鐘の音が鳴り響いている。義宣寺本堂境内の前に建つ義宣と勝成の連名の墓がある。高さ一五〇センチメートルで、墓石には、右に「傑柴田監物義宣」、左に「柴田三左衛門勝成」と彫られ、反対側には「義宣寺殿傑山玄英大居士・勝成院殿蘭香宗英大居士」、神儀として法名が彫られている。この墓を建てたと伝えられている柴田 頼母という人物についても全く不明である。本堂には墓石と同じ位牌が安置されており、これもまた連名で書かれている。

義宣寺

義宣寺